時局を洞察する (RYU SELECTION)
北尾 吉孝
ちょっとしたお付き合いで読み始めた本だった。
流通しているとはいえ、自費出版に近い形だから、読んだ人も読もうとしている人も少ないだろうし、本来ブログに感想文を載せるべき対象ではない。
ところが、余りに稚拙な提言の並べ立てに驚き、更に自身を 「 中国古典に精通する・・・ 」 と何度も描写しながら綴る、幼稚で少しの技巧をも感じさせない文章表現に呆れてしまい、その矛盾の大きさにある種の感動(?)を覚えて感想を書いている次第である。
故に、以下の感想は本の内容に関するものではない、あくまで 「 書き方 」 に対するものである。
この人の提言は、実は非常に正しい。
どれもが常識人のそれであり、間違ったことは言っていない。
では、何がおかしいか?なのだが、理想は誰もが分かっていて解決の方策が無く、人々が困り果てている問題を次々に取り上げ、その全てを、
「 ・・・ は、いずれ見直されねばならない問題だと思います。」
「 ・・・ は、考えてゆかねばなりません。」
で結んで、その章を終えているという点だ。
日本の税金のかなりの部分が無駄遣いに終わる実情から、地球温暖化といった難しい問題までが、いとも簡単にそんな言葉で結ばれて終わっているのである。
いやアンタ、そんな能天気な結論で良かったら、これ読んでいる全員が、どれほど解決が絶望的な難しい問題についてだって本を書けるよ?
それは当然にそういうことになるだろう。
挙げている問題とあるべき方向が毎回正しくても、全てこの結論って、それは無いだろっ!!
・・・ そう思って、腹を立てかけている所に、後半特に目に付き、鼻にも付いたのが、「 中国古典 」 に対する精通振りの自慢話だ。
いや ・・・ 中国古典は別に構わないんだけれど、それをひけらかしている張本人が、まともに日本語も書けないというのが大問題!
今回ブログから起こした原稿ということで、何時に無く地が出ているらしいのだが、この人の文章はかなり稚拙な部類に入ると言わざるを得ない。
何しろ、主語 → 述語 ( 概ね 名詞 → 動詞 の流れとなる ) の順であるため、語尾が同じ言葉の繰り返しになり易い日本語に、語尾をバラケさせる工夫すらしていない。
「 ・・・ と思います。」 や 「 ・・・です。」 なんてのが5回くらい続くと、古典に精通していて、読書自慢なら語尾くらいバラケさせておけよっ!!は、言いたくなってしまう。
しかも、しょっちゅう漢文を引用し、露骨なまでに読書量を誇って、自分で 「 精通 」 という言葉を用いて自身を表現する割には間違いが多いのも鼻に付く。
例えば、格上の人物に面識を得たことをいちいち 「 お会いした 」 と語っているのだが、小学校卒の西川きよしにこの表現が多いのは我慢できても、慶應 + ケンブリッジ留学の経歴を持つものが 「 お会いしてきた 」 を連発するのは、如何なものか?
「 会う 」 の主語は当然に自分であるので、この場合 「 自己尊敬 」 でしかない。
あくまで 「 お目に掛かる 」 とするのが本筋だろう。
ま、他にも、慶應 + ケンブリッジ留学 にしてはあり得べからざる間違いがゴマンとある ・・・ そんな文章を、中国古典への精通振りの自画自賛と共に拝聴してしまったということだ。
内容といい書き方といい、本を著すということがこの程度で良いのか?と妙な気持ちになってしまった一冊だった。