生活に困って、とうとうたった一頭残ったロバを売ろうと決めた父子が、
ロバを引いて家を離れ、市の立つ町へと向かっておりました。
途中で一人の男とすれ違ったのですが、その男が父子を見て、こう言い
ました。
「 何て馬鹿なことだ。ロバの背中が空いているじゃないか。一人乗って
いったらいいのに。」
それを聞いて父親は、
「 なるほど、それもそうだ。」 と思い、せがれをロバの背に乗せました。
こうして、暫く行くと、向こうからお百姓さんがやって来て、今度は、
「 おやおや、あの子は若くて元気なくせに、年寄りを歩かせて自分は
ロバに乗って行くよ。おかしな親子もあるもんだ。」 と言うのです。
それを聞いたせがれは恥かしくなって、
「 なるほど、確かにそうだ。」 と思い、慌ててロバから飛び下りると、
父親をロバに乗せました。
さらに行くと、また別の男とすれ違い、
「 おやまあ、可愛そうに。小さな子供を歩かせて、いい大人が楽をして
いるのかい。」
と笑われてしまいました。
これを聞いて、今度は父親の方が恥かしくなってしまい、
「 それもそうだ。お前も乗って行きなさい。」 と、せがれも一緒に抱き
上げて、二人で乗って行く事にしました。
ところが、またもう少し行くと、違う男と出会って、今度は、
「 何と可愛そうに。あんな痩せたロバに二人して乗って行くなんて、呆れた
親子もあるもんだ!」 と、言われてしまったではありませんか。
それを聞いて父子は、また、「 それもそうだ。ロバもさぞかし疲れたろう。」
と、ロバから降り、
「 はてさて、今度はどうしたものか。」 と相談をした挙句、
「 二人でロバを担 (かつ) いで行こう。」 ということに決めました。
やがて二人はロバを担ぎながら、村から町へ出る橋までやって来ました。
すると、町の人たちがこれを見て、
「 わあいわあい、ロバを担いで来るよ。」
「 あれで橋を渡るつもりかい。可笑しくて見ていられないよ。」
「 あっはっは!」
と笑いました。
父子が橋の中ほどまで来たとき、ロバが暴れだし、そうして遂に川の中へ
「 どぶーん 」 と落ちてしまいました。
あっぷあっぷしながら流されていく ロバを眺め、後ろにこの事態を揶揄
する見物人達の笑い声を聞きながら呆然とする父子でしたが、それでも
この二人は、自分達が何故こんなに皆から笑われたのか、ちっとも
分りませんでしたとさ。
おしまいっ!!
〜 イソップ物語、「 ロバと親子 」 ( または、「 ロバを担いだ親子 」 ) 〜
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アドバイスする、褒める、貶す ・・・ 他人に対するこういった行為は
必ずしも、善意からだけで為されるとは限らない。
往々にしてそれらは恣意的であり、どうやら、基準は、「 相手にとって 」
ではなく、「 その人にとって 」 都合の良い結果を招く方を目指している
ということらしい。
つまり、相手が、より良い成果を上げるようにではなく、自分がより得を
出来るように、アドバイスを与えることの方が多いというわけだ。
褒める・貶すも同様であって、褒めることによって、自分の利益に繋がる
選択を促し、貶すことによって、自分の不利益になる選択をさせまいと
するのである。
結果はアドバイスと同じ誘導方向となる。
時にそれは、損得ですらなく、単に 「 面白い結果が出さえすれば良い 」
であったりもする。
この場合、相手の失敗は、そういう人間の最も満足な結末となるだろう。
冒頭に挙げた寓話が、正にこの状態を描いたものである。
人は時に無責任に、時に悪意を込めて、時には全くの興味本位とか、
答えるのが面倒な時、断る代わりに投遣りなアドバイスを人に与える。
別に悪いことだとまでは思わない。
人間とは、多分そういう動物なのだと思う。
だからこそ、そういったアドバイスなり、褒め貶しを受け取る側が、しっかり
とした自我を確立している必要が有るのだと、わたしは思っている。
要は、外野の無責任な声の取捨選択が出来るか否かであろう。
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以前にこのブログで、某産業経済新聞が女性を褒める時が、どんな場面
でだかを書いたことがあった。
「 真の意味での知性 」 を感じ、「 地に足の着いた生き方 」 をしていると
一番手放しに大絶賛されたのは、下着ファッションで腰を振るような動作
をダンスに取り入れていた頃のマドンナだった ・・・ と!
柳沢発言を受け、2007/02/01 の、【産経抄】 でも、「 寧ろ男性の方が
機械扱いされているではないか 」 という感想を抱いた女性が 「 褒め
られて 」 いた。
正直に言って、その女性の感想そのものには、わたしも同じように感じ
ていた。
企業という組織を大型の機械に例えることが多いため、往々にして、男性
は、その部品扱いをされてきたのだから、その感想は正しいのだろう。
問題は、その感想が、強姦殺人の際の女性の非を言い立てたときに
「 物分りの良さ 」 を褒め、下着での公演を 「 女性の真の知性 」 と
持て囃す、その同じ価値観の上で 「 褒められている 」 ということに
尽きる。
かの新聞に褒められる女性というものは、定めし立派な日本人女性で
あるのだろう。
しかし、立派な人間と呼べるかどうか、それどころか、人間にとどまって
いるのかどうかさえも、大いに疑問なのである。
多分、日本を出てしまった場合にも、それらの 「 立派さ 」 は、通用する
まい。
マドンナだって、ユニークなキャラクタとして受け入れられたのであって、
世界中の人が、「 女性は下着で過ごせばよい存在だ 」 と認めた証拠
として、持て囃された人だとは思えない。
「 ふん、つまんねぇこと、ほざきやがるぜ!人間の味方だぁ?」
「 へっ、俺は、生まれてから死ぬまで、俺だけの味方なんだよっ!」