最近 ・・・ いや、ネットが普及し出した2000年以降、顕著になったろうか?
苦になって来ているのが、周りに 「 天才 」 が多過ぎるという事。
何処ぞのルリちゃんのように、「 バカばっか!」 と言えるなら、それなりに
楽しいのかも知れないが、自分以外の周囲が天才だらけというのは悲惨だ。
早い時期に幾つかのホームページに、「 私ほどの者ともなると 」 などと
いう記述を認めた時には、実は殆ど気にもしてはいなかった。
単純に、「 ・・・ ほどの者ともなると 」 を自分自身に使うなんて、冗談だと
軽く受け取って、聞き流していたからだ。
しかし、次第に様相が変わってき始め、やがてそういう風に言うもの同士で
互いを 「 先生 」 とか、「 流石に天才○○様 」 などと呼び掛け合い出し、
お互いに誉めそやすようになっていった。
勿論、自身はそう名乗りたくないというタイプも居たには居たが、そういう者
たちだって、その馬鹿げた天才ごっこを無視しているわけではなかった。
自分が中心になりたがらないだけで、その中心人物は異様に持ち上げる。
陰の番長タイプとか、副将志望って奴なのだろう。
で、何となく、階級制みたいになったそんな場所から離れたくて仕方が無く
なった。
人を尊敬し、学べる所が有るなら学ぶというのも悪くは無いんだろうけれど、
何しろ、今取り沙汰しているのは、「 私ほどの者ともなると 」 なんて、わたし
の感覚では有り得ない台詞を平気で吐く人達の話なんだから、真面目に
尊敬しようにも、かなりの無理があった。
そもそも、その他人を小馬鹿にしたような台詞そのものが、「 てにをは 」
すら正しく用いていない日本語で書かれていた。
普段から大して読書の習慣も無いのだろう、漢字もワープロ機能に頼った
滅茶苦茶で、以前にわたしが冗談で使っていた 「 駄菓子菓子 (だが、
しかし) 」 のような漢字が、短い文章の中のあちこちに鏤められていて、
まるで、判じ物だった。
そういう文章を通して、「 私ほどの者ともなると ・・・ 」 を拝聴し、天才の
孤独感を伺っても、学ぶべき点を感ずるどころか、逃げ出したくなるばかり
だった。
だいたいが、自分が天才だと誇って、相手と違っていると宣言することに、
何の意味が有るのかも分からない。
「 その遊び、面白いのん?」 としか、言いようが無いだろう、それ!
結局、2005年にそういうサイトを管理している女性とひと悶着あって、以降
サイトを通した、仲良しグループのようなものには一切参加していない。
反目された時の相手の恨みが存外大きく、「 この世から消えろ 」 としつこく
言われて、その当時のブログだけでなく、新しいサイトにも追掛けて来た
とか、そんな事情も有ったのだが、正直に言うと、そういう水準の人を
持ち上げ続ける付き合いに疲れてしまった。
つまり、もう、褒めたくなくなっていた。
今でもそうだが、もうあと一言も、そういう人を天才と呼びたくないし、その人
の漏らす、「 世の中の水準が低い 」 という嘆きに対して、慰めの言葉も
掛けたくなくなっていた。
飽きちゃいました!その手の天才ごっこ。
そりゃ、大人しくそこに居れば、その人もこちらを天才の一員と呼んでは
くれるんだけど、残念ながら当方は大阪育ちで、「 そんな一文にもならん
称号は要らない 」 という口だった。
知能なんて、実質その場を乗り切れたり、何か必要に駆られたとき、間に
合わせに詰め込んだ内容を覚えてられりゃ、そんで良かろう、としか考え
ない。
要するに、「 英検とか資格は要らないから、洋画見るとき、字幕から目を
放したい。海外旅行では、勝手に街をほっつき歩きたい 」 という手合いだ。
最初っから、言葉だけの上での天才の称号なんてのは、有り難いと思え
なかったということらしい。
しかし、矢張りその後もそんな傾向は強まる一方だ。
出入りしているサイトにもそんな場所が驚くくらいに多い。
最初からそうであったのなら、そこの読者になってはいなかった筈なの
だが、この一年ほどの間に、急に驕り上がってしまって、仕方無く行くのを
止めたところも数件あった。
当初通常のサイトだったところが、カウンタが回り出し、固定閲覧者が増え
出した途端、自身の動作を職業作家に擬えて呼ぶようになったりと、もう
手が付けられない。
冷たい冷気とか、机上の上で ・・・ などと言う重ね言葉満載のホムペなど
一般人と思って読みに行っていたときには、それも御愛嬌と受け取れたが
次第に、「 執筆中です 」 「 脱稿しました 」 となって行き、周囲がそれに
阿って、「 お疲れ様です。」 「 楽しみにしておりました。」 と応じ始めると
当人はもう、ファンが付いた事に気を良くしてしまい、作家気取りだ。
最近では、「 日記 」 として載せている日常報告に、2・3日置きに、数十万円
の買い物をしたという記述が載せられているので、遠からず自己破産する
予定であるらしい。
( 夫は漁師で現在、赤字操業だとも書いているが ・・・?)
持ち上げられ続けると、本当に作家になったような気になって、だから作家
のような文章を書いて、「 冷たい冷気 」 は止めるか ・・・ と考える代わりに、
収入が増えていないにも関わらず、人気作家並みの買い物がしたくなる
ものらしい。
あな怖ろしや!その代金はどうやって支払うんだろう ・・・?
ネットだから、何をどうしても実際の姿が見えない。そういう安心感が有る
のかも知れない。
ネットの匿名性を最大限に生かして、虚構の自分を楽しんでいるのかな?
とも思う。
だけど、偶然にしては、そんな人の出現が急激に増え過ぎてもいるようだ。
時代的にそうなっているのかも知れない。特に現在の日本では。
だって、日本に限って、「 頭脳開発商品 」 と称するものが、矢鱈多いと思う。
しょうもない携帯ゲーム機用のソフトにまで、最近そういうものが相次いで
発売された。
そのシリーズには、一々 「 大人の 」 というタイトルが付けてあったが、大人
になってからの頭脳開発なんて、そもそも間に合うのだろうか?
使えば多少、気が利いてくるにしても、IQ 100 から、200 に、なんていう
皆の期待に応える様な効果が有るものなのか? ・・・ ちゅうか、IQ の存在
意義自体が、元来 「 子供の 」 ませくれ返り度の指標みたいなものだって、
みんなちゃんと知ってるのかな?
・・・ てなことを考える今日この頃ではあるのだが、先日面白いことを発見
した。
これまで、時々耳にしていた 「 マインドマッピング 」 という言葉。
一昔前のフローチャートのように、一応の規則でも知っていれば、何か
作業が上手く行くようなツールだと思っていたが、ちょっと違うらしい。
( いや、フローチャート自体、わたしは絶対に使わないけど!)
これ、何冊も本が出ているのだが、読んでも読んでも、マインドマッピング
の効能を謳い上げるばかりで、具体的なノウハウを教えてくれない。
本自体は、付録にCDなどが付いている割には安価な価格設定で、1000円
くらいから有るのだが、読者レビューを読んでいると、どれもが効能の説明
だけで終わってしまうようだ。
で、もっと詳しく知りたければ ・・・ って事になる訳だけど、その行き着く先が
非常に高価な研修や、インストラクター養成コースばかり。
インストラクターばかりを養成して、誰に教えようっての?知識のねずみ講
じゃないか ・・・ って思ってしまうけど、いやいや、この感覚は以前にも見た
覚えが大有り名古屋だってぇの。
読めども読めども効能の紹介、あくまで本チャンは当会にて ・・・ ってこの
商法は、昔書店で買い物をすると、強制的に袋に入れられてしまった 「 速聴 」
の案内書にそっくり!
あれは、本当に高かった。120 ― 130万円 〜 だったっけ?
遣り口が似てるなあ ・・・ そう思って調べてみたら、成る程!と思う事項を
発見!
実は、マインドマップを最初に日本に紹介しようとしていた人物が、速聴を
広めている例の田中何某氏。
今のブザン協会の会長が、それを引き取って事実上の独占販売をして
いる形になっている。
提唱者が何処に二人の相違点を見い出して、選び替えたのかは知らない
けれど、少なくとも受け取り側にとっては、速聴を勧めるような感じで取り
扱える 「 商品 」 であったとだけは、言えるだろう。
速聴はわたし自身は好まないのだが ( ← 遅読み専門だから。)、効果は
実際に報告されているようで、理屈だけはそう理不尽なものではない。
また、速聴の内容として販売されている 「 ナポレオン・ヒル 」 の著述も、
本当に世界中で良く読まれているビジネス書である。
問題は、それを組み合わせて、100万以上の価格で販売している点と、
何故かそれらに、「 頭脳力アップ 」 の効果を謳っている点だ。
どういう訳か、日本には 「 脳力アップ 」 とか 「 天才になれる 」 商品が、
溢れ返っている。最近そういうのが益々増えた。
マインドマッピングの紹介ビデオでも、最初に 「 人間は脳の1パーセント
しか使っていません。」 という文言が入っている。
勿論、それは余裕の部分で、余程の奇跡でも起こらない限り、マッピング
を上手くやったからと言って、100% とか 90% になったりはしない。
マインドマッピングはある種の整理術であって、脳開発の道具ではないと
思うし、初期の頃のブザンの活動を見ていても、そんな気配は感じ難い。
小さな子供の場合、本当に物覚えが悪いと言うより、整理が苦手だったり
ちゃんと考えようとする習慣が無くて、成績が悪い子が居るものなのだが、
そういう子供たちを集めて、マッピングの指導をしているに過ぎないのだ。
しかも、机に文房具を取り散らかせて、のびのびと自由にやらせており、
こういう指導をされたら、整理の下手だった子供には本当に良さそうだと
さえ感じる。
しかし、現在日本向けに紹介されているマインドマッピングでは、提唱者の
トニー・ブザンは、マインドマッピングについて十二のルールを定めており、
「 それに従っていないものはマインドマップとは呼べない 」 と主張している。
そのルールとやらを守ろうとする事で、マッピングの本来の目的であった
「 イメージを拡げ、自由な発想を延ばしていく 」 という効能が阻害されない
ことを祈るばかりである。
何だか、もう、世界でそんな幻想を抱くのは日本人だけと言われるような、
頭脳開発のノウハウや、天才を作るスーパードラッグ ( 有り得ない!) を
追い求めるのは止めにした方が、頭が良く見えるんじゃないの?とまで
思ってしまう。
それで無くとも、我こそは 「 一般 」 ( 何を指してる気だ?) とは、違って
天才だと思っている奴が溢れ返っている我が国で、こんなにも他所の国の
人達が見向きもしない 「 天才グッズ 」 を追い求めるのは、滑稽だと思う。
もう、充分過ぎるって考えないんだろうか ・・・?